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[club 48] 肩の荷がおりました
 

----- Original Message -----
Sent: Friday, September 08, 2000 11:05 AM
Subject: [club 48] 肩の荷がおりました


オープンネット倶楽部の皆様

実は小生、肩の荷がおりてホッとしているところなのです。
本の原稿をやっと書き終えたのです。皆さんには「特別」に
「おわりに」だけお届します。本文は秘密です。
編集者から3ヶ月後に店頭に並ぶと言われています。
年内ぎりぎりというところでしょうか。
印税が入れば(取らぬ狸の皮算用)
「働けど 働けど 我が暮らし・・・じっと手を見る」
もいくらか改善されるかなと思っています。

では・・・。

おわりに
 執筆から開放されて、久しぶりに親しい知人を訪問しました。「山ちゃん、どげし
ちょった?元気だった?」ずいぶん疎遠になっていたので、行く先々でからかわれま
した。やっぱり「外回りのほうが楽しいな」としみじみと感じた1日でした。例年な
ら赤とんぼが飛んでいてもおかしくないのに、空にはまだ夏の太陽がぎらぎらと輝い
ていました。
 案の定執筆は遅れに遅れ、出版社と編集の人たちに迷惑をかけてしまいました。
最初は「すみません。なかなか時間が取れなくて…」と定番の言い訳をしました。ま
た次の〆切りが近づくと、「設計と同じで、コンセプトが明確にならないと文章は浮
んでこないもんだね」とまるで第三者のような言い訳もしました。でも内心は「おま
えの力不足が一番の原因だよ」と、ちゃんと分かっていたのです。
 複雑な建築のことを解り易く表現することにずいぶん苦労しました。「これ以上深
く入り込むとかえって解りにくくなる」と思ったところは、敢えて説明を省きまし
た。そのため、いくらか誤解を招くような個所もあったと思います。「それでも良い
んだ」と思ってキーボードを打ちました。
 何故なら、この本を出す意味は「家をつくりたいと思っているあなた自身が、専門
家と同じ情報を持って、専門家と一緒に結論を出す」ことの大切さを伝えるところに
あるからです。専門家だけに結論を委ねていると、誰も気が付かないうちに時として
大きな落とし穴に落ちることもあるのです。だから生活者、そこに住む人、寝る人、
遊ぶ人が参加して結論を出したほうが良いと思うのです。
 私は北海道で生まれ、幼少期を過ごしました。「果て〜し〜ない、大空と、広い大
地の〜その中で〜♪」という松山千春の歌を聞くと、セピア色となった思い出が蘇っ
てきます。
 十勝平野、広尾郡大樹町。親戚が牧場をしていたので、牛や馬ともよく遊びまし
た。その頃から私は既存の組織や考え方に嵌らない、という才能を発揮していたよう
です。断片的な記憶しか残っていませんが……。
 幼稚園に行ったのは入園式の1日だけです。母親から弁当を受け取ると、元気よく
家を飛び出して探検に出かけていました。兄や姉のいる小学校へも行って、よく授業
を見学していました。先生の質問に兄や姉よりも先に答えて、笑いを取るのが面白
かったです。町のパチンコ屋へも行きました。転がっている玉を拾って遊びました。
駅も探検のコースでした。父親に肩車をしてもらい、熊祭りも見ました。かがり火に
囲まれた中で、熊が酒を飲んでいました。冬になると日方川(十勝川の支流)が凍り
ました。氷の上でも遊びました。小学校の運動場がスケートリンクになりました。ス
ケートの靴は兄と姉の奪い合いで、末っ子の私にはなかなか順番が回ってきませんで
した。
 家には綿羊がいました。買い物にいつも付いてきました。綿羊がいなくなったあ
と、ジョンというシェパードを飼いました。私よりも大きな体のくせに、じゃれつい
てきて、いつもころげ回されました。卵を買いにお使いに行ったことがあります。帰
り道が暗くなって恐くて走って帰り、卵を全部割ってしまいました。小学校の入学式
はランドセルを背負って行きました。まだ雪が残っていました。始めて学んだ担任の
先生は、しのなが先生という男の先生でした。1年生の2学期に鳥取県米子市に転校
しました。青函連絡船と汽車を乗り継ぎ、途中東京の親戚に寄りました。
 北海道で父親は商売をしていました。ミシンとか洋服を売っていました。売るのは
上手だったけど代金の回収が下手で、家計は苦しかったようです。父は趣味で田舎劇
団を結成していました。少し変わり者だったようです。けっきょく商売に見切りをつ
けて内地(親はそう言っていました。本州のことです)の親戚と共同経営で事業を始
めるために、今住んでいる米子に来ました。
 母親は自分のことを「文学少女」だったと言っています。小さい頃はいつも寝る前
にふとんの中で本を読んでくれました。「母さん、かわいそうだね…」と僕はよく泣
いていたそうです。母は澱粉工場に仕事に行き、ときどき焼いた澱粉のかたまりを
持って帰ってきました。父親はいなくても、母親がいれば子供はちゃんと育つ。米子
に移って事業が順調になったころに父親はガンで亡くなりました。僕が小学校の6年
生のときでした。既存の組織や考え方に嵌らないという僕の才能は、母を支えなけれ
ばという独立心も加わり、さらに磨きがかかっていきました。
 北海道で過ごした幼少期は、今の僕にとって人間形成の基底部分を作っていると思
います。人間も自然も一体。自分も宇宙も一体。人と人も一体。すべてのものが生命
の深い部分で……一体である。草むらで遊んだ子供たちの足の下、わずかなその面積
の中に一億ともいわれる微生物がいます。小さな虫を発見すると、子供たちはすぐに
遊び相手として歓迎します。触覚の動きも足の動きも、飽きずにいつまでも観察しま
す。草の葉の模様を観察し、手触りも確かめます。木の肌の感触も、川の水の感触
も、子供たちに「遊ぼう」と呼びかけてきます。遊び疲れたら空の雲が話し相手をし
てくれて、そのうちに草むらは柔らかなベッドに変わります。優しい風に包まれ
て……。
 ある部分までは説明することができます……。人間も自然も一体。すべては独立
し、個性を主張し、それでいて調和しています。北海道の長い冬を耐え忍んで、春に
なれば草木が一成に萌え出でてきます。朝の光に答えるように鳥たちは合唱し、ミツ
バチは会話をします。自分も宇宙も一体。1メートルに満たない子供の中にも、宇宙
が全部詰まっています。無限の可能性を秘めた子供たちも、地球の公転と自転という
運行に合わせて、眠り、目覚め、活動します。人と人も一体。見えない意識の下で、
何かを共有しています。すべてを育み育てる何かがこの宇宙には充満しています。こ
ころの周波数を合わせると……。きっとキャッチできます。
 信じるか、信じないか、最後は実感です。北海道の幼少期を過ごしたことは、私に
とってこのうえない貴重な体験です。一人ひとりがみんな自分だけにしかない体験を
持っています。そして、家に対する想いも一人ひとり違います。
 米子高専建築学科で勉強していたころは、建築の勉強よりも文学や哲学をよく読み
ました。経済や組織が優先する世の中に反発も覚えました。時には先生にも反発し
て、ずいぶん困らせました。いつしか僕の中で「一人ひとりの人間は何物にも替える
ことのできない価値を持つ」という思想が形造られました。建築というフィールドで
それを表現することが、そのころからのテーマでした。
 だから卒業論文のテーマも「建築と人間の関わり」に決めました。当時の私には荷
が重たすぎるテーマだったので未完成に終わりました。それからずっと考え続け、今
やっと卒業論文の続きを書くことができました。「先生、今からでも受け取ってくだ
さいますか?」と言っても、卒論担当の宮川久三先生にはもう声は届かないのですよ
ね…。27年間も経ってしまったのですから。
 本当に月並みな表現ですが、「世の中の役に立つ人間になるために勉強をしよう」
と決意しました。「役に立つには本物の人間にならなければならない」ということを
毎日自分に言い聞かせてきました。「自分には力が無い。だけどこんな自分でも、い
やどんな人間でも無限の可能性がある」と思ったから根気よくがんばることができた
と思います。まだ、途上ですけどね。
 最後に、青春時代に多くの示唆を与えてくださったフランスのビクトル・ユゴーさ
んにお礼を言います。ユゴーさんが生まれてからもうすぐ200年ですね…。
                   
                            2000年8月31日


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  ■業界常識を打ち破る 顧客主導の建築革命■
  これだ、これ! 待っていたんだ この仕組み
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